ミニコンと木村泉先生

木村 泉 先生

木村先生はワインバーグの著作を多数翻訳された。 楽しく読んだし、ずいぶん参考になった。/イーグル村通信 についてはひとこと書いた。

しかし、それら以外の著書もあるので、そちらを取り上げたい。

計算機の専門家を養成することに熱心だった。

まずは /プログラム書法(初版)そして、 /莫迦話 (教育とミニコン関連) である。

入出力、かな漢字変換、日本語処理も研究されていた。これらは/日本語 に集めた。

あとは/プログラミング・シンポジウム関連の思い出がある。

/ミニコンはいろんな場面に顔をだす。項目としてまとめた。

個人的な話は省略した。

1986年からの4年間は 総合情報処理/センター長をされていた。 スーパーコンピュータ導入を始めとして激動の期間だった。 センター長お疲れさまでした。

木村先生と書いてきたが、私にとっては「隣の家の楽しいお兄さん」という感じでした。

  • その受け止め方がよくなかったのかと思うこともあるけど、いまは「お兄ちゃん、ありがとう」と。

そして、自分の過去を振り返るきっかけをいただいた角田博保さんにもお礼を申し上げる。

前野年紀

木村泉先生/イーグル村通信

「韋編三絶」  何度も読むうち、とじひもが三回も切れた

ワインバーグさんの話は難しい。

第50回 早めにもうろくするための方法

いま読み直してみるとすんなりと受け入れられることでも、 最初に読んだときにはなにを言っているのかわからないことがよくあった。

経験を重ねたことも影響しているのだろう。

木村先生はどういう思いで訳されたのか。

楽しんで読むのが重要であり、そこからなにか得られれば、訳者にも喜んでいただけるのでないか。

木村泉先生/莫迦話

N. H. K. の三人の著者による連載記事

  • 共立出版 雑誌 bit 連載 1972年から、...

のちに、

  • 「計算機科学の発想」 単行本 – 1981年5月

としてまとめられた。(連載の半数が納められている。) 著者お三方の本名は明かされていない。(知るひとぞ知る。だが今となってはどうか。)

著者らによる座談会の回が特に興味深い。 当時の背景を思いやりながら読むと、今でも面白い。(HさんとKさんのやりとりは漫才のよう。) お持ちでない方は図書館で探してみてください。

(計算機)専門家養成のためには「ボタン押し」から始める、だったかと。 ミニコンは裸の計算機に触れられる貴重な機会だった。

ミニコンの世界

木村先生が書かれたミニコン関連話にはイニシャル(H. K. 君など)で木村研関係者が複数登場する。

今回読み直してみて理解できたこともある。 愚痴を含め、楽しんで書いておられるのが伝わってくる。教訓も得られる。

背景になっている当時の環境を書いておく。 ミニコンとは 4K語から16K語程度の主記憶(コアメモリ、後に半導体メモリに置換え)をもつコンピュータをさす。

  • 1語はおおむね16ビットである。

周辺機器(入出力)はテレタイプ(TTY 毎秒10字)と紙テープリーダ程度しかついていない。

  • 紙テープによる入出力 (最大でも500字/秒) が中心で、HDDなどは標準ではなかった。 フロッピーディスク(死語か)すらなかった時代である。

操作盤(コンソール)にあるボタンを押して操作する・できる。

  • メモリに直接書き込める。レジスターやメモリをランプに読み出せる。 プログラムの停止、実行もコンソールのボタンで指定できる。(break pointの設定はなかった。)

計算機の内部状態を見て確認できたのは貴重な経験だ。

「計算機言語第一」という講義があり、ミニコンNEAC 3200を利用した演習もあった。

メモリプロテクト騒動記

結論: 手抜きのハードウェアの相手をするには手間がかかる。(対応できる部分はまだまし。)

Hitac 5020 でも似たような話があったと思うが、思い出せない。

現在ではこんな話は自前で計算機を作るひとの間でしかできないだろう。 計算機設計が趣味というひとの登場を願う。

教育

学科の学生には 「10年後でも役に立つ(陳腐化しない)教育」をということだったが、 実際にはどうなのか。分からない。

ワークステーション、UNIX、ネットワークの時代へ

1980年代からの30年ほどはハードウェアの性能向上がすざましくて、 並列処理以外のソフトウェア面での性能改善意欲を失わせるものだった。

ネットワークの有り難さを知った時期でもあった。

木村泉先生/日本語

IBM ゴルフボール

ミニコンに接続されていた TTY (テレタイプASR-33型) がシリンダーヘッドだったのに対し、 IBM セレクトリックタイプライターはゴルフボールヘッド (88文字?) を採用しており、 プリントヘッドを交換することで、出力する文字を替えられる。

先生はかな文字ヘッドを作らせて、使われていた。 ひらかな主体の手紙をいただいた記憶がある。

  • (漢字プリンタとか、かな表示のディスプレイはその後だろう)
    • Facom 230-45S のコンソールの近くに置いてあった記憶がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/IBM_Selectric_typewriter

http://www1.cts.ne.jp/~clab/Old/Old3.html

セレクトリックタイプライターには画期的な訂正機能がありました。

  • 訂正用の白いリボンが付いていて、ミスタイプした箇所へ戻ってミスタイプしたのと同じキーを叩くと、その字を消してくれます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC

1978年には「デイジーホイール」が開発され、

http://www.hi-ho.ne.jp/skinoshita/shef34.htm APL

ラインプリンター

メインフレームでは漢字プリンタが開発されるまでは、大文字だけで英小文字すら印刷できなかった。

カタカナが印刷できたかは記憶にない。 事務用に利用されていたし、EBCDIK コード(日立用語) があったから、できたのかも。

日本語ワープロ

/ワープロ徹底入門 岩波新書

  • 「松」を愛用しておられた。私も使って重宝した(何度か更新)が、値段が値段で一太郎に乗り換えた。

木村泉先生/ワープロ徹底入門

岩波新書 16 1988年3月

パソコンでワープロ機能(ソフト)が使えるようになってきたころの話が中心かと思う。

  • K. B. 配列の比較など、興味深い。(5章 キーボードをめぐって) 専用ワープロではなく、PC98上の一太郎(第二、第三版)を使って書かれた。

翻訳書の多い木村先生だが、これは翻訳ではない本のひとつだ。

この本より前から日本語入力を研究されていたはずだが、かな文字を使った手紙をいただいたことくらいしか 思い出せない。あとはマクロ方式のかな漢字変換とか、漢字コードの話とかがあるはずだ。

PC環境

以下は自分の環境の話です。K. B. の話を除き、ほぼ余談。

メインフレームでは行単位の入出力しかなくて、単語単位の変換が使えない。不便でした。

  • マクロ方式のかな漢字変換をテーマに修論を書いた髙木茂行君はもういない。

パソコンといってもほぼ PC9801 (NEC) です。(V30という Intel 互換チップ利用)

  • 1985年7月発売とある。10MHzだった。当時としては大容量の384KB (増設カードで1MB増設した。)

Dvorak配列が日本語入力と相性がいいということで、最初は 粕川さんの作られたアダプターを借りて、PC 9801本体とK.B.との間に挟んで利用した。 のちにK.B.ドライバ(ソフトウェア)に置き換えて、いろんな配列を楽しんだ。

CとKを入れ替えるといいという話をしていただいた。(今だったら、DとKを入れ替えるのがいいかとも思う。)

Dvorak配列はミニコンの時代から常用しており、Linuxを使っているいまも常用している。

端末

PCはメインフレームのTSSを利用するための端末としても機能します。

  • 高い端末専用機を買うよりも、PCに端末エミュレータを載せた方がずっと安い。

しかも、端末エミュレータはサイトライセンスで安価に入手できた。(のち、学内開発のものも配布)

日本語エディタ

当初は木村先生に倣って、 管理工学研究所の「松」、ジャストシステムの「一太郎」などを MS-DOSで使った。

津田塾大の小川貴英さんのSSE日本語エディタが公開されてからは、もっぱらSSEで日本文を作成していた。

メインフレームでの日本語入力

ワープロ、PC以前はメインフレーム端末でローマ字入力し、行単位でかな漢字変換して、日本語文の作成を行なっていた。

  • カナ表示可能な端末は存在した。漢字表示可能になったのはいつか。 1985年以前 (1980年ころから)

行単位の入出力という制約があった。バッチ処理的な変換に頼ることになる。

  • 結果的にローマ字入力だけは高速になるが、正しく変換できたかの確認が行単位であり、
  • その場でやりづらいという問題が起こる。

マクロ方式のかな漢字変換をテーマに修論を書いた髙木茂行君はもういない。

パソコンを購入するの理由のひとつに文字単位の入出力ができることがあった。

木村泉先生/プログラミングシンポジウム

https://prosym.org/prosyncontents.html

構造的プログラミングとその経験

1975年7月の3日間に 発足したばかりの筑波大学で行われた。 木村先生と筧捷彦、辻尚史の両氏が幹事を担当した。 エアコンが使えないため蒸し風呂状態の教室での講演・議論だった。 工事中のキャンパス内の教室だったが、宿舎は立派だった。

参加者46名の集合写真には木村先生手書きの名前表が添えられている。

ミニコン話

Hitac-10のシミュレータをFacom 230-45/S で動かしたという話を第16回../プログラミング・シンポジウム (1975) でされている。とても、楽しかった記憶がある。(自分はHitac-10に関してはエキスパートのつもりだった。) CAP/PTTでも拝聴したはずだが、記録には見当たらない。


  • 「16. ミニコンピュータ用シミュレータの設計」 : 木村泉、飯島淳子、辻尚史 第16回 プログラミング・シンポジウム

島内剛一先生の「システムプログラムの実際」 (*)にあるシステムを「鑑賞する」のが目的だったと理解している。

  • (*) サイエンス社、 昭和47年 4月 発行 (1972年)

システムの一部であるSPAというアセンブラの性能を改善した話がでてくる。

  • アセンブル処理中でCPU時間をたくさん使っていたのが「名前表探索(順探索)」であった。 この探索作業をホスト呼び出し機能経由でF45Sの探索命令を使い高速化した、との話はいまも記憶に残っている。

ミニコンのシミュレータを中型機で動かすことの意味については、原著を読んで欲しい。 実機に触れることで得られるはずのものは得られないにしても、 シミュレータを動かすことの利点もある。(巨大なメモリとか、豊富な機器類など) デバッグにも有利だが、これは利点と呼べるかは分からない。

前野はHitac-10を直接触ることができたので、SPAなどの良さは体感していた。

ファイルシステムの調査

第17回(1976) プログラミング・シンポジウム

9  ファイルの内容に関する実例研究          木村 泉, 飯島淳子, 辻 尚史

スペース(コード)が多いという話をされた。

それに倣って、前野も総合情報処理センターのM-180でのファイル利用を調査した。驚きの結果を得た。 ディスク上のファイルと言っても、ほとんどが紙カード(1枚80桁)イメージのままだった。 これなら、末尾の空白を取り除くだけで、占有領域は半分以下になる。(コード圧縮しないでも) だが、コンパイラーが対応していなかった。対応してもらうのに何ヶ月もかかった。

メインフレームでは今後の変化に追従できないと思った。

木村泉先生/ミニコン

NEAC 3200/50 (別名 Pontiac): ../莫迦話 でよく取り上げられている。読み直して欲しい。

Hitac-10 はシミュレータを作って、動かしておられた。

プログラム言語第一

情報科学科の科目のひとつ、ミニコン NEAC 3200/50 を題材にして、 『"計算機の世界、という新しい自然界についての直感的理解に達すること。』を目標にされた。

「自然界」には違和感があるが、専門家を養成するなら、いまでもやって欲しい内容だ。

  • 裸の計算機に接する機会はもうないか。(複雑になりすぎた。) 簡単なコンピュータを自作する方法はあるが、「自然」とは言えない。

OHPフィルムに手書き、色付きのスライドを使って講義をされていた。見た方も多いと思う。

  • 大変な時間をかけられたと思う。 準備は講義の直前に行い、脳をリフレッシュするのがよいとのこと。

手元にあるのは色なしの印刷版だ。

  • 今となっては細かい説明(ここまでやるんかい)もあると感じるが、 現物の計算機が目の前にあって、自分で確認できたのはいい経験になったことだろう。

アセンブラはSPA(Hitac-10用に作られた島内システム)類似だから、移植されたのか、記憶にない。

前野年紀

木村泉先生/センター長

1986年から4年間 総合情報処理センター長を務められ、UNIXとネットワークの普及に尽力された。 スーパーコンピュータ予算がついた激動の期間だった。

センター長お疲れさまでした。

第二種の計算機利用

センター長になられたときに、計算させることにしか目が向いていない利用者を説得するために書かれた記事がある。

メインフレームはプログラミングの助けにはならない。

  • TSSが使えるだけではプログラムの編集にさえ不十分だ。 UNIXのgrepのようなものさえ用意されていない。(sedもなかった。)

今後の計算機にはUNIXのような機能も必要だということだ。

そして、PCやワークステーションはメインフレームとは異なるクラスの計算機であり、 Groshの法則の範囲外であるというACMの論文を支持しておられた。

ネットワーク

東工大ネットワークの基礎づくりにも尽力された。

  • 飯島、池辺、木村、と三代のセンター長のもとで、ネットワーク(ハードウェア)が培われていった。

木村センター長時代はその仕上げとも言える時期だ。 (PC Unixの普及も助けとなった。)

  • 利用者がいてのネットワークである、と強調しておられた。(管理者が利用者を振り回すな、という意味だったと思う。) ただ、若手との意見の違いも多少はあった。 (メール管理など管理コストの負担などについて)

スーパーコンピュータ

日米貿易摩擦の影響で、スーバーコンの予算が付くことになった。(中曽根首相、日立スパイ事件) 1987年 ETA10+Sun WS群を入れた。 ネットワーク利用を推進する機会でもあった。

前野年紀

MoinQ: ミニコンと木村泉先生 (last edited 2021-08-27 01:55:48 by ToshinoriMaeno)